こんばんは
今日はまた寒かったですね~。
いわゆる「寒の戻り」っちゅーヤツですか・・・。
一時のポカポカ陽気に緩んだ体の細胞が一気に縮みあがったような感じです。
みなさま、体調管理に努めましょうね
今回ご紹介するのは西原村布田にあります江戸時代の会所跡です。
みなさんは「会所」ってご存知ですか?
西原村役場のH.P.によりますと
細川氏が肥後の藩主となると、寛永10年(西暦1633)手永(てなが)の制度を設けた。その役所を会所と呼んだ。
とあります。
wikipediaによりますと、江戸時代の会所では住民を集めて奉行所などからの「町触」などの規則を伝達したり、
逆に住民が提出する届書を作成する事務を行ったりしたようです。
では、
手永制度とはなんぞや?
ネットで調べてみました(^^;
細川氏が小倉在城から設けている行政区域。
村をいくつか集めて手永とし、手永のいくつかを差配する郡代という藩の役人を置くシステム。
細川藩オリジナル。
ひとつの手永の村数、一人の郡代が統括する手永数も一定の規則があるわけでなくまちまち。
忠利入国初期には手永は100を超えていましたが、幕末のころには50程になっています。
ふ~ん・・・わかったような、わからないような(^^;
では、その会所跡を覗いてみましょう。
杭の横には石垣があります。
当時の物なのか、比較的新しい物なのかわかりませんが、苔むしていて時代は感じます。
会所跡へはこんな所を歩いていきます。
道?の両側は個人の畑になってましたが、この地一帯が会所跡なんでしょうか?
とにかく広いんですよ。
これまた西原村役場のH.P.によりますと、
布田手永には南郷谷の西半分と、山西区が入り、河原区は沼山津手永に入る。
手永には惣庄屋があり、庄屋、頭百姓などと農民の自治組織をしき、
新所地区のような軍事を含んだ足軽鉄砲隊の村もあった。とのこと。
って、全部家に帰って、ネットで調べてわかったこと。
こちら残念なことにその場には杭以外、何の説明板もないんですよね~・・・。
当時の間取り図?敷地図?とか、説明がもう少しあってもいいと思うんですがね。
誰も見に来ないと思ってるのかな?
だだっ広い跡地にびっくりした能天気夫婦でした。